先日に続きネタ切れのため 、本日も思い出画像と独り言で暇潰しをお楽しみ下さい。
今年は長野県の善光寺の御開帳の年。その善光寺から峠道を抜けて白馬村を目指した時に白沢峠で見た残雪の北アルプス。
突然現れたトンネルの向こうには、残雪の北アルプスの山々が現れた・・・。いきなりのこの景色には感動した。
青鬼集落から白馬村残雪の北アルプスを望む・・・。右手の山裾には長野オリンピックのスキージャンプ台の緑色が見える。
日本の原風景がここにあった・・・。
大出の吊り橋・・・清らかな雪解け水の流れる音を聞きながら、残雪の北アルプスを望む。
心休まる日本の原風景はいつ見ても良い・・・。
安曇野の道祖神・・・。
常念道祖神の背後には常念岳が聳える・・・。
安曇野で・・・
安曇野大王わさび農場にて・・・。
これは随分と南下した信州で撮った画像だったかな・・・?
さて、これ以降の記事はカメラに興味の無い方&お忙しい方はスルーして下さいね。暇潰しには持ってこいの長文なので悪しからず・・・ライカCLを使用してみて。
ライカの中にあっては日常使い的にスナップ等でも活躍するごく平凡な存在位置にあるCLだが、それでも価格的にはカメラを知っている人達から見ても少々お高く感じるカメラ。雑誌やネット記事を見てみるとライカらしさが味わえるなど、まずまずの評価が見られたので一台持ってみるのも良いか、と日常使いとしてライカを味わうべく導入した訳だが、今回はその感想を少し語ってみたいと思う。因みに発売は2017年とそう真新しい機種でもない。結論から言うと、ライカだからって幸せな気分になれるカメラではなかったぞ~。これなら今年出るであろうα9Ⅲでも買うようにしておいた方が良かったか・・・。
世界のライカってよく耳にするけれど何が?と自分なりに最初はそう思っていた。多分ライカと言うブランドを崇拝するマニアが作り上げた言葉?なのかなぁ~、なんて感じたのが正直なところ。勿論ここで語る事はあくまでライカCLと言う機種を使っての感想なのだが・・・。価格と言う部分では車や精密機器同様に手作り部分の多い物はコストも掛かり高価であり、その部分はオートメーションで製造されるカメラと違う職人技術の生きるライカのカメラも同様だとは理解が出来る。
しかしなぁ~・・・ライカのカメラには下はコンデジからミラーレス一眼まで、またフィルム機など古い機種までと数々あるがどれもが高価だ。ライカでも上級機種になるとボディだけで百万円を軽く超える物もある。中級機でさえ数十万円が当たり前のカメラメーカーだ。そこで、CLを使ってみて感想を一言と言われたら、「国産で同じ価格帯のカメラを買った方が、遥かに幸せになれますよ~。」と言った感じか。
今やサードパーティ製のこの機種にも使用出来るレンズもあり助かるが、純正は勿論高価であり選べるほど商品が充実していないのが現状だ。「CLはライカらしさが味わえるカメラ」と雑誌やネットでも取り沙汰されて言われていたが、それはメーカーが違えば色味や表現その他諸々が違うのは、国産メーカーでも当たり前な事なのだ。誰もが知るプロカメラマンの評価、カメラ雑誌や知名度のある人達の評価次第で、「素晴らしカメラ」となってしまう訳だが、そんなところがライカにはあるようにライカ素人の自分にはより強く感じた。小型なので良い部分と言えば小型で持ち歩くには便利、作りはクラフトマンシップ感のあるアルミ削り出しのシッカリした作りである事。と言うかそれだけの事。何故かと言うと、カメラを握る右手の平の親指の延長部分辺りの支える部分が、背面ダイヤルに触れてしまい、それにより事有る毎にフォーカス位置が移動してしまい、先ずそれを修正してから撮るとい言った事も多々あり、非常に煩わしさを感じるカメラなのだ。これはダイヤル位置の改善しかない。もう少し上に設置すればこの問題は防げるのだから・・・。何故この位置にしたのかが疑問。小型と言っても国産並みの大きさがあれば、その弊害は出ないだろう。ライカのあの大きさだから出てしまう問題だ。ドイツ人の手のひらサイズではこれでOKなの?と言いたくなる。この問題がCLの一番のネックだがそれを雑誌やカメラマンやユーチューブなどで指摘する記事は一度も見た事が無い。それどころか「使い易いカメラだ」とか「ライカらしいカメラだ」と評価し言っているのが全て。自分達が使っているライカだからなのか、ライカと仕事上の関係性があるからなのか、完全なるライカ信者なのかなど理由は知らないが・・・悪い部分の指摘が無さ過ぎる。
そして色味はナチュラルで好き嫌いはあるだろう。独特と言えば独特だ。モノクロも面白いのだが、国産メーカーでも日頃はカラー撮りなのでモノクロで撮れば新鮮味がある訳だ。「ライカ」のネームバリューの魔力に陥ると、ライカのモノクロが「これぞライカだ」となってしまうだけなのかとも感じる。ライカ通の誰かが言っていたが、夕刻時のスナップでライカCLを使い撮った時に、「シャッタースピード不足で少々ブレのある絵となってしまったが、それがまたライカらしい絵を作ってくれた」と・・・。これこそがライカ崇拝者の病持ちのコメントだとつくづく感じた。本来なら本末転倒な話しのはず。薄暗がりのボケたような絵、甘い絵が逆に雰囲気のあるライカらしい絵と評したこの人は、薄暗いブレた絵が自信を持ってライカだと言っているようなもの。洗脳された人の言葉としか言いようがない。今のカメラは撮るのが難しい状況下でも撮らせてくれるカメラ、それを「ヨシ」とするのだが、ライカのようにネームバリューがあると悪くても「ヨシ」としてしまい、意味が違ってしまうものなのだなぁと改めて感じた次第だ。フィルム時代のオールドレンズが今でも持て囃されるライカにあっては、そう言った失敗した絵でもそれを「ヨシ」と言い替えさせてしまう事が評価に繋がる特殊なカメラメーカーなのだろう。自分が使っているカメラを扱き下ろすコメントは如何なものかと思うかも知れないが、実際に使っている自分が言うのだから間違いないだろう。ライカのカメラは大枚を叩き手にする価値のあるカメラとは正直自分には思えない。ただの世界のライカとネームバリューの付いたカメラなだけだと言えるのが精一杯。・・・と言いたい放題の自分だが、「世界のライカをまだまだ理解していない奴が良く言うねぇ」、「たかがCLを使った位だけで良く言うねぇ」・・・と批判を浴びるかも知れないが、でもCLは自分にとって使い辛いカメラであるのは事実であり、特別良い絵を叩き出してくれる訳でもない、手振れ補正も無い、ただのチョイ時代遅れのミラーレスカメラと言う印象が正直なところ自分の見解だ。
以上の独り言に関連する事かどうかは分からないが、少なくとも通じる部分があるのではないかと言う話をもう一つしてみたい。
日本でも誰もが認める写真界の巨匠が撮った写真が、カメラ雑誌などの巻頭を数ページ飾っているのを良く見かけるが、時折自分はその写真の何処が良いの?何を表現したいの?と疑問を憶える事がある。見た限りどう見てもカメラを扱える小学生なら誰でも撮れるだろうこれは・・・と言う写真を度々見る事があるからだ。薄暗く超アンダーで撮っただけの何気ない一瞬の光景・・・これが何なの?と思ってしまうことがあるのだ。しかし写真界の巨匠の撮った写真はもうそれだけで「芸術」扱いされるのだ。その写真を撮ったカメラマンに知名度があるからだ。
何でもそうだ。芸術と言われる作品に通じる物に関しては、「その道で知名度がある者」また、「それをヨシとした知名度のある人物や歴史上の人物」が認めれば、それだけで値が付いてしまう。誰もが知る知名度のある写真家が撮った作品ならば、何が何でも一流の作品となってしまう訳だ。自分は盆栽、日本刀と他の趣味もあるが、こうした物にも名の通った人が育てた物や作刀した物、旧所有者が著名人や歴史上の人物だった物ならば、それだけで値が吊り上がる。要は美術や芸術作品の多くは、知名度のある人物の作品は駄作であれ何であれ、もうそれだけで価値があり値が付くと言うことだ。そしてその人が言った事は絶対となり「これは素晴らしいカメラだ」と言えば、もうそのカメラには信者崇拝者が列を成す素晴らしきカメラとなる訳だ。その第一線を行くのがネームバリューのあるライカだと自分は思えてならない。これもまたCLを使ってみての感想なのだが・・・。考えれば考える程価値と言うものは虚しい話となる。カメラや写真業界で著名な誰かが「ヨシ」とすれば、即ユーザーは洗脳される。自分自身でお金を使い自分で実際使ってみると真実は見えますね。と言う事で我々ユーザーは気持ちを引き締めて掛かる必要がある。特に自分の様に洗脳されやすい単純なお馬鹿さんはね・・・じゃんじゃん。本日はこれまで。
祖新六四
(そにぃ むつし)